納棺師日記

納棺師日記

実は、おくりびとになりまして( K )

 

 

 

前日までの大豪雨が嘘だったかのように蝉が煩かった朝。

 

「__が死んだ。」

 

出勤前に家を訪ねてきた友人の一言。理解が追い付かず間抜けな顔をしていたんだろうなと思う。視界がちらついて口の中の水分がなくなって足場が急に無くなったような感覚だけは今も鮮明に思い出せる。火葬が終わるまでのことはあまり覚えていない、ちゃんとお別れができていたかは微妙なところです。

正直今も実感はない。定期的に手を合わせには行ってるし骨壺の中には要るんだろうけどピンとこない。形式だけ慣習に合わせてはいるが弔う気持ちは持てていないのだと思います。

 

ちゃんとあいつを弔いたいと思った。そのときにはもう上司に電話をしていました。

 「やりたいことができたので辞めさせてください。」

ほんとに唐突だったので頑張ってと言ってくれた上司には足を向けて眠れない。いやほんとに

仕事を変えたのは友人が死んでから年を跨いだ春だった。 

 

ほんの思い付きでこの納棺師という仕事を始めてみると、不思議なことに納棺師という立場を通してなら、故人様を偲ぶ気持ちは持てました。ご家族の話を通して、気が強い方だったんだな、無口な方だったんだな、優しい方だったんだな、愛されてたんだな。

故人様のお人柄を聞きながら緩やかに進んでいく現場で”人の最期”を間近に見てきました。まぁそんなにきれいな現場ばかりではないんですけどね。

 始まりは友人を弔うためとはいえ、今はもうこの仕事にやりがいも愛着も誇りも感じているので、僕のようにお別れの時間を無為に過ごしてしまわないために”納棺師”として何ができるのか、いつも考えています。

最近では料金の問題や、信仰に関わる諸問題、核家族化による家族意識の変化、親族との付き合いなどが希薄になりつつあること、さらに世の中の流れのスピード化や簡略化が加速していることから、直葬(病院や安置所から直接火葬場に搬送し、近しい方々のみで火葬だけをすませる)を希望するご家族が増えています。 

ですが直葬は人が亡くなり、還らぬ人になってしまったという事実を実感する暇もなく遺骨にしてしまい、時間が経っても亡くなってしまった事実を受け入れることができず、故人様に対して何もしてやれなかったなどの後悔が心の片隅に居座り鬱屈とした日々を過ごしている方が増えているらしいということです。聞きかじっただけですので

亡くなられた事実を受け入れなければ偲び、弔う気持ちまでは行きにくいと思います。こうした風潮の中で納棺師としてご家族にどうお別れを過ごしていただくか、その機会をどう設けるか。本当にその機会を作ることができるのか。

故人様には故人様の、ご家族にはご家族の想いがあり、人生があり、思い出があります。一言では表しにくい思いにどう応えるべきか、どう応えたいのか。

「偲ぶ時間を大切に過ごしてほしい。」

偲ぶという言葉は、人を思うと書きます。僕はふとした時にあいつとの思い出が頭をよぎります。そんなこともあったな、楽しかったな、懐かしいな。そんなことを考えて後々思い出すのです。あ、もう亡くなってるんだったな。でも思い返しているその時、僕の中ではあいつは確かに生きていて、会えなくなるなんて微塵も考えてなくて、でもそういう時間のことを偲んでいると言うのだと僕は思います。

 

大切な方を亡くしたばかりのご家族に後悔のないお別れをしていただくために僕たち納棺師に何ができるのか。正解のない仕事だとは思いますが、この仕事に出会えて、上司に恵まれ、同僚に恵まれ。僕はとても運が良いと思います。あいつのおかげかな?ちょっとだけ感謝しておきましょう。ほんのちょっとだけね

 

 

 

たまに地元に帰ると知人に言われるのです。

 

 

 

「最近、何してるの?」

 

 

 

僕は胸を張って答えるのです。

 

 

 

 

「実は、おくりびとになりまして。」

 

 

 

 

 (筆者:中の人 K )